つつがなしやともがき

日常。備忘録。

“嫌いなあんた”の幸せを願い、他者と共生する世界を愛することについて。

 

ズーカラデルの「漂流劇団」という曲が好きで、それはもう、自分の葬式でも行われた日にはそこで流してほしいくらいに好きなのだが、その曲の歌詞の中に、

“今からこの世界が優しく変わらないかな 嫌いなあんたがいつか幸せになれますように”

というフレーズがある。

私はこのフレーズが、この部分だけ何回もリピートして聴くくらいには、好きでしかたがないのである。

 


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人生も30年近く過ごしていると、自分や自分の大切に思うひとが他人に傷つけられたり、嫌な思いをさせられたり、悪意に満ちた他人の言動を第三者目線で目撃したり、そういうこともそこそこ経験することになる。

 

ある程度付き合う人間を選択できる学生時代までは、自分を傷つけるような相手や、苦手だなと感じる相手とは可能な限り距離を取ることで自分の愛しい世界線を守ってきた私も、社会に出て組織の一員になってからはそういう相手とどうしても距離をうまく取ることができないことも多々あって、他人によって自分の大切なものを擦り減らされるような体験をしばしば通って生きてきた。その都度、特定の他者によってもたらされる悔しさや怒り、やるせなさやもどかしさといった、今まで感じたことのなかった感情の波にこころが「もっていかれ」そうになったりもした。

 

こころが「もっていかれ」る、というのは、自分が大切にしたい、自分のこころのきれいな部分が持っていかれる、というような感覚。

自分のこころのきれいな部分、というのは、元来あらゆる他人を信用したいと思っていて、あらゆる他人の立場に想像力を働かせてその人のことを理解したいと思っていて、あらゆる他人を大切にしたいと思っていて…そしてそれが可能であると信じたがっている、みたいな、そういう、側から見れば幼稚で、蒼くて、ひどく理想主義かもしれない、そんな部分。

 

そういう理想主義的な意識が、上で述べたような波によって完全に「もっていかれ」たり、変容させられたりすることに関して、この社会ではときどき「大人になる」とか、「一皮むける」みたいな、人間の発達段階上肯定的な捉え方をされたり、「世の中そういうものだよ」という風に自然現象的な捉え方をされたりする。

でも、本当にそうだろうかと、いつも疑問に思う。

その過程は、あんなにも苦しみや痛みを伴うのに?

本来あったはずのこころのきれいな部分を歪められた自分自身のことを、ちょっと嫌いになったりするのに?

完全に「もっていかれ」てしまったら、新しく出会う他者と関わるときに好意的な姿勢から入ることも自然にはできなくなって、他者と共生していくこの世界を愛することも難しくなるのに?

 

私のこころの中には、ひとまず今の段階では、まだ「もっていかれ」たくないきれいな部分がある。守りたい愛しい世界線がある。

もし、生きていく上で波を避けることができないのなら、自分のこころの大切な部分まで「もっていかれ」ないために、強い柱を携えておかなければならない。

堤防を用意するのも大事だが、堤防はひとつというわけにはいかないし、たくさん用意するのにはまだまだ時間がかかりそうだ。それに、想定していなかった波が押し寄せてきた場合、用意していた堤防は崩される危険性が高い。だから、まずは荒波が襲ってきたときにも耐えうる司令塔のような大きな大きな強い柱をひとつ、築いておかなければならない。「もっていかれ」たくない部分を自分で決めて、認識して、しっかり築いていれば、「これだけは失くさない」と思うことができる。思い込みに近いのかもしれないけど。

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芦原妃名子さん『Bread&Butter』の個人的名シーン)

 

“嫌いなあんたがいつか幸せになれますように”。これは私の大きな柱であり、司令塔から発せられることばのようなものだ。

 

過去、悪意に満ちた行動を向けてきた“あんた”も、ことばの暴力性に無頓着であるがゆえに針のような発言で私の心をチクチクと刺してきた“あんた”も、その不誠実さで私の大切な人を傷つけた“あんた”も、もしかしたら私の知らないどこかで、深く傷ついていたり、苦しんでいたり、助けを求めていたり、幸せに向かってもがいているのかもしれない。きれいごとみたいだけど、でもほんの少しだけど、本当にそんな風にも思う。私のこころの大切な部分は、“あんた”のせいなんかで崩されるものじゃないから、心からこう思えるようになるまでには時間がかかるかもしれないけれど、とりあえず大きな声で言い放ってみる。“嫌いなあんたがいつか、幸せになれますように”。

 

そういう風にしてみるだけでも、自分のこころの大切な部分が、きちんと自分によって守られている感じがしてくる。

突き詰めれば大きなしんどさも伴うことだけど、“嫌いなあんた”の立場に想像力を働かせて、自分のこころが許そうとする過程は、結果的に自分のこころを守ってくれる。こころのきれいさを、強くしてくれる。他者と共生する世界を、まだ愛したいと思わせてくれる。

 

優しい世界線は、自分自身で守り抜きたい。大きな柱をきちんと建てて。

そしていつかは、自分のこころの中に、憎い荒波すらも受け入れられる大きなダムをつくってやるのだ。嫌気がさすような大波も、少しずつ蝕みにくるような濁った水も、きちんと貯水として認識してやるのだ。悔しさのエネルギー発電に変えたり、次にやってくる波からこころを守るための治水として使ってやったりするのだ。あのときの“あんた”も今の“あんた”も、幸せになれよ、と願いながら。いつか大きな大きな波がやってきて、司令塔も破壊されて、ダムも決壊するようなことが起こるかもしれないけど、ひとまず今のところは、そう思っている。

 

こんな備忘録の最後に残しておきたいのは、やっぱり、よしもとばななさんの超名作『デッドエンドの思い出』からの、私が愛してやまない一節。

 

 ―ほんとうは別のかたちでいっしょに過ごせたかもしれないのに、どうしてだかうまくいかなかった人たち。本当の父と母、昔の恋人、別れていった友達たち。

 この世の中に、あの会いかたで出会ってしまったがゆえに、わたしとその人たちはどうやってもうまくいかなかった。

 

 でもどこか遠くの、深い深い世界で、きっときれいな水辺のところで、私たちはほほえみあい、ただ優しくしあい、いい時間を過ごしているに違いない、そういうふうに思うのだ。―